ほとりのほとり

漫画家志望の日記です

都会感と焦燥感と

自分の中での音楽のルーツというか、大好きな人がいる。

YOASOBIのAyaseさんだ。

様々な一面を持つAyaseさんだが、自分の中で一番強い印象を持つのはボカロPとしてのAyaseさんだ。どう表現したらいいのか。Ayaseさんの創り上げるVOCALOID作品というのは、本当に類を見ない新鮮味があるし、聴き始めた頃のめちゃくちゃ新しくて見たこともない世界に連れてこられた感はとんでもなかった。新鮮味があるというのは今でも聴くたびに思うし、他の人の曲を聴いても味わえないAyaseさん特有のものがあると思っている。

AyaseさんのVOCALOID楽曲が放つ魅力とはなんだろうと考えるとやはり、「都会感」だと思う。

「都会感」というと夜にネオン輝くオシャレな都会の街の雰囲気…というイメージがなんとなく一般的にあると思うが、Ayaseさんの楽曲は夜だけではなく、「昼」の都会感を味わうことができると個人的には思う。例を挙げるなら、キラークイーンとかハッピーエンダーとか、フィクションブルーとか。

曲に対して時間帯のイメージが付与されていない曲がそのイメージで、都会の街中を歩いているような感覚になるのだが、どこか焦燥感のある歌詞や時折見せる切なげなサウンドも相まっていい意味で「お洒落ではない都会感」が演出されていると思う。

お洒落な都会感を持つ楽曲というのは、どこか優雅で、自信のあるものが多いように感じられるが、Ayaseさんの楽曲にはそれがないから、メロディーはお洒落でも「いい感じに洒落てる感じ」を感じさせないんだと思う。

幽霊東京の歌詞には、街の灯りを孤独な自分の姿と対比させている一節がある。輝く街の景色だとか、活気ある街並みだとかを尊いようには捉えず、ものすごい現実的に捉えてくるから心に寄り添える歌詞になっているんだと自分は思う。

どこか無機質で、冷たい歌声のミクもAyaseさんの楽曲の持つ都会感や焦燥感と上手くハマっていると思う。

これらが自分の感性とってドンピシャ、ストライクゾーンだったんだと思う。

 

Ayaseさんのボカロの歌詞は自分のことを蔑むような歌詞も結構あるのだが、ネガティブすぎたり、不快になるような暴力的な歌詞がないのが聴いていて心地良い。何というか、優しさがあるというか。他にも、Ayaseさんの楽曲の特徴として初めは暗くてもハッピエンダー、幽霊東京、シネマのように最後には希望を持って歩き出して行くような楽曲が多いのも特徴だと思う。希望のあるラストへの持って行き方が凄い上手くて、希望を持つと言っても少しづつ踏み出して行く、踏み出す決心をするみたいなところも不自然じゃなくてすごい良いと思う。

ラストリゾートみたいに最後まで絶望に突っ切る歌詞もすき。

Ayaseさんは最近はいろんなところからの依頼を受けて楽曲制作に取り組んでいるように見えるけれど、やっぱりボカロのように自分のことを歌詞に書いて、自分のことを歌っているAyaseさんが大好きだ。

また「幽霊東京」みたいな都会感のある楽曲が聴きたい。とにかく俺はどんな活動でろうと応援するだけだ__っ。

怠惰を愛でる癖

自分の中に潜在している悪癖に関する話。

題名にある通り、怠惰を愛でてしまう癖が自分にはある。

劣等感の塊みたいな自分が何故か愛しく思えてしまう時がある。

辛い、苦しい現状をいつか何かに役立つだろうと自分の記憶の中に留めてしまう。

だからいつまで経っても忘れられないし、徐々に薄れて忘れた記憶も自分を構築する怠惰の一つとなって蓄積されていく。

 

多分自分は、良い経験であれ悪い経験であれ記憶の中の話になってしまえば、思い出になってしまえば良いように捉えてしまうのだと思う。だからいつまで経っても過去に囚われたままだし、先の景色を見ることができない。

 

この怠惰をいつか解消できるまで、自分は先に進めない。昔の分まで引き連れているからどれくらいあるのかもわからないけれど。

 

気持ちと付き合っていくのは本当に難しいな。

消えた女の子

最近、自分の中での「女の子」が薄れていっている気がする。というか、ほぼ無い。

自分の中での「女の子」というのは、説明しずらいけど、所謂「女子っぽい気持ち」的な。

自分は男性だけど少なからずそういう部分があって。まあ、性別なんてどうでもいいと思う気持ちもあるけど、自分は男性として生きてきたから言葉としてのわかりやすさを優先して男、女という言葉を例に挙げているんだと思う。

 

自分の中の「女の子」がなぜ消えたように感じるかというと、一番は絵を描く際に女の子しか描かなくなったこと。本当に最近は女の子ばっかり描いてるし、新規にデザインし始める時も女の子ばっかり。

正直女の子描くのが楽しくてしょうがないし、男性への興味を失ってしまったんだと思う。

男性キャラを描く時も別に全然楽しくないわけじゃないんだけど、女の子よりは筆が乗らない。

これが、自分の中の女の子が消えた一番の例。前に男性キャラを描くのが楽しい時期は確実にあったし、男性同士の関係を考えるのもすきだった。

自分の中の女子が盛り上がっていたんだと思う。

しかし何故だ。なぜこうなってしまったんだ。

おそらくその原因は、自分の中にある「友情」に対する気持ちが薄れてしまったんだと思う。

思えば男性キャラの内面やキャラ同士の関係を構想する際、一番密接にあったのは「友情を尊く思う気持ち」だったと思う。

男性キャラを考える時は「友情」に関係させると自分は筆が乗るタイプだったんだと思う。

 

でも今の自分は「友情」というものに全く触れない生活を送っている。ずっと家にいるし。ずっと一人だし。

 

自分には光とも言える存在の友達がいるのだけれど、彼ともしばらく会話してない。思えば彼から友達がいることの尊さみたいなものを受け取っていたと思う。

彼は自分が思う男子の魅力みたいなのも凄い詰まってるし、(あくまで自分にとって)もしかしたら彼と会って話して光を浴びればまた自分の中の女の子が目を覚ますかもしれない。

 

こうやってちょっと冷静に状況を分析してみると、やっぱり人と関わらないと自分の本能が求めるままに思考回路が偏ってしまうなと、そのほうがいいこともあるかもしれないけど、人と関わって受け取れるものはやっぱり偉大だし。

 

まーボチボチ、かっこいい男性キャラが出まくる漫画とかみて自分の中の女の子を甦らせようと思いますわ。

 

また

いいものつくろうよ

 

創作における"いいもの"を生み出すことのできる精神性って一体なんだろうなと考えたとき、やっぱり自分の中では"最低"だと思う。

 

基本的に人の心を動かせるものは満たされている人間にはつくることはできないと思うし、消化しきれない気持ちを引きずってドン底から上を見れる方が人は伸び代があると思う。

満たされないほど求めるものは大きくなると思うし、求めるものが大きいほど想像が働く。

 

自分が求めている景色を他者と共有できるんだから創作は素晴らしいと思う。

かくいう自分も、とんでもないもの求めてるから早く共有したいと思っているこの頃。こんなふうに捉えることができるなら酷く苦しんだ経験にも感謝してもいいかもしれない。

はじめまして

はじめまして、ほとりです。

 

ブログでしか消化できない気持ちがありそうなのでブログをはじめてみました。

 

自分はまだ何者でもないので一人間の日記みたいなものとして見てもらえたら幸いです。

 

 

今自分は漫画家を志望していて、毎日話の構想を練っています。

去年の7月の末に構想を練り始めたから、一つの作品に対して約9ヶ月間向き合っていることになります。

とは言っても最近は曲が作りたくてしょうがないので作曲にばかり意識が寄っていて。

作曲は楽しいから良いんですけど。

漫画も曲も悩むことばかりです。

 

これら創作に対する悩みだとかを中心に生活のことをこのブログでは綴っていこうと思います。

 

漫画に対する今の一番の悩みは自分にデザインセンスが無さすぎることで、それも一番肝心なところ。

何かというと、主人公です。

作品の顔である主人公の見た目がこの9ヶ月間試行錯誤したもいまだに定まっていない。

他9割型は自分でも納得のいくデザインが練り出せたのに!

もうこれは降りてくるのを待つしかないのかもしれない。

 

こないだなんて「主人公の見た目考えたけど全然しっくりこない!まただ!もう寝る!」って悩みを投げたまま寝たら苦しくて魘されましたからね。

 

先を見据えた上での君の悪さみたいなものはそこへ進むにつれて近づいてくるような感覚があって、あとのためにも早く書き換えなければと焦ってしまうこの頃です。

現状を打破したいという気持ちに追われているんでしょうね。

 

今のままじゃこの漫画は何もかも不安定すぎる。いろいろなものが混合して類を見ない雰囲気になっちゃってる。(良いように言うと)

 

そしてなにより、これ以上違和感を増やして今まで時間をかけて整えてきた整合性が崩れるのが一番恐ろしい。その可能性はすぐ隣にいる。

 

はい、今日の僕の頭の中でした。

書いたらちょっとすっきりした。

 

また